我が子の臓器を提供できますか?

臓器移植法改正A案が衆院で可決され、年齢制限が撤廃されるらしい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090619-00000159-san-pol
A案:本人の意思表示がなくても、家族の承諾で提供ができる
   0歳から15歳までの臓器提供を新たに認め、「脳死は一般に人の死」と位置づける
B案:現行法のまま15歳→12歳以上に引き下げる
C案:脳死判定基準を厳格化し、当面子供の臓器移植を認めない
D案:15歳以上は現行法を維持し、15歳未満は家族の承認などを条件に提供を認める
「A案」に関し、衆院の投票総数430票のうち賛成263票、反対167票、欠席・棄権は47人
現実的には”脳死”となったら回復の可能性はほぼゼロなんだと思う。
というか、回復の見込みがゼロだから”脳死”と判断される(のだと思った)。
昨晩かみさんに「珠希が脳死になったら、臓器提供できる?」とサラッと聞いてみた。
ちょっと考えた後、「うーん、無理だなぁ…」と返ってきた。
うん、無理な気がする。
制度に反対とかではなく、我が子がその立場になった際を思うとできない気がする。
頭ではわかっている。
「回復の見込みが無い子供」と、「臓器をもらえれば回復する子供」がいる。
だったら、臓器移植で”助かる命”を救うことが有意義で合理的(?)である。
けど、我が子に元気になって欲しい、回復して欲しいと思う気持ちは、
どちらの親だって一緒なんだよね。どちらを優先するとかの話じゃない。
「その臓器で助かる命があるんだから、提供しようよ」なんて、誰にも言う権利は無い。
もちろん、逆に提供する人を非難するようなもんでもない。
脳死だと言ったって、もしかしたら明日目を開けるかもしれない。話すかもしれない。
脳が機能していなくとも、心臓は動いているし血は巡っている。
髪の毛だって伸びるし爪だって伸びる。そこに”意思”はなくても生きている。
例え死を待つだけの状態だとしても、今死んでいない以上は生きている。
それを、諦めるわけじゃないけど臓器提供するなんて、やっぱりできない気がする。
エゴかもしれない。けど、子を持つ親ならわかると思うんだ。
「あなたの子は、他の子の中で生き続けている」なんて言葉もあるけど、
それだって受け入れられない。
我が子は我が子で、全てそのままの状態で眠りにつかせてあげたい。
「他の子の中で…」なんて、変な未練と言うか、そういう感情が芽生えてしまう。
(そもそも提供先の情報は得られないはずだけど)
極端に言えば心臓死で冷たくなった体としても、一部でも切り取られたくないんだ。
我が子の臓器は、”パーツ”ではい。
でも同時に、提供しなかったらしなかったで
同じ子供の助かる命を救う決断ができなかった自分に、自己嫌悪で悩みそうだね。。
感情論を避けられない問題だから難しい。

まあ元々の考えとして、現行法が足かせとなって
提供したいと考えている人が提供できず、それにより救える命を増やそうという
そういう趣旨ではあるのだと思うけど。
「美徳」や「自己犠牲」とかの言葉の元、この臓器移植が変な方向に推奨されて
「善意の提供者/悪意の非提供者」みたいな視点の世の中にはなって欲しくないな。
なんか結論が出ないまま、我が子に置き換えるとただただ胸が熱くなる。
# 詳しくないので、”脳死”の定義を間違ってるかもしれません

コメント

  1. きゃすばる より:

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    でもそのくせ、もし自分の子が「提供を待つ身」となったら、
    何をしてでもどんな恥をかいてでも、提供いただけるよう行動する気がする。
    身勝手極まりないのは重々承知だけど、
    実際にそんな場面になったら、感情を抑えて冷静な行動ができなそう。

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